来店0
シドニーにあった、或るカフェのオーナーは、中国人だった。セントラル・ステーションのすぐ傍らで、24時間営業していた。黄色いペンキで塗られたカフェの中には、様々な国籍の食べ物が、温かいウォーマーの中に、入っていた。中華をメインに、ラザニアなどのイタリア料理、韓国風プルコギ、インドカレー、日本料理の惣菜など、その種類は多彩だった。
24時間営業なので、従業員もインド系、アジア系、中東の人達、欧米人など、様々な国の人が、パートとして働いていた。中国人のオーナーは、いつも疲れているように見えた。長距離バスの乗降場の正面だったので、乗客が降りて、しばらくの間、食べ物をテイクアウトしようとする人で、よく賑わっていた。
そこは、旅の始まり、でもある場所だった。

このような様子が好きで、そのカフェをよく訪れていた。旅に出たいと思いながら、彼らを眺めていたのかもしれない。そのせいか遂には、シドニーから、首都のキャンベラ経てメルボルン、そこからタスマニアという島へ、少し長い旅をする事があった。
島を旅しているうちに、リッチモンドという、小さな町に、たどり着いた。小さな町には、静かで美しい風景があり、それにふさわしい英国式の、古風なティーハウススタイルの、カフェ・レストランがあった。その瞬間、私は魅了されたように、カフェの中に入った。フォークとナイフが、整えられたテーブルには、予約席と、書かれたスタンドがあった。団体客が、来るようだった。
カフェで出迎えてくれたのは、黒の長いエプロンをつけた、由緒ある、雰囲気と、気品のある中年のバトラーの方、だった。私はコーヒーとチーズケーキを注文し、その味も期待を、裏切らなかった。旅の疲れを、忘れさせてくれる時間だった。
やがて、私はただ単に、白い雪が良いという理由で北海道を選び、カフェを始めた。私の記憶のどこかに、このようなカフェの思い出が、あったからこそ、可能だったのだ。
スタートはロマンチックなものだったが、その過程は決して、安直なものではなかったと、声を大にして言いたい。でもそれは、私が一番、自分らしく、いられた時間、だったのではないかと、思う。だから、決して、忘れずに覚えておきたいと思う。
来店 1
意意気込んで始めたカフェは、その街の中心部の、歓楽街から、そう遠くない場所にあった。自分が、考えていたカフェのイメージと、周囲の環境が合わない、と思いながらも、条件を考えて、そこに決めた。冬は、-20度になるほどの、極寒の地域だった。しかし問題は、契約時に約束した事とは違い、貸主と私の間に、開店前の引き渡しに於ける、齟齬があった。
私は、以前、使っていたテーブルと椅子、そして備品は全て、撤去してほしいと言った。貸主は、片付けるのに、時間をくれと言った。ところが、私が約束の日に行った時にも、何も、片付いていなかった。私がなぜ片付けをしないのか、と尋ねると、手が足りなくてできないと、言われた。バカバカしいと思いつつ、時間を引き延ばすわけにもいかないので、私は知人と一緒にテーブルと椅子を、貸主の家の倉庫に運び入れた。
貸主が使っていた備品も、丁寧に紙に包んで箱に入れて、倉庫に、持って行ったが、なんだか、腹が立ってきた。これから始まろうとしているカフェで、早くもこのようなことが起こるとは、今後が心配になった。
家の裏側の駐車場を挟んで、貸主の家があった。貸主の女性は、母親と二人で、大きな家に住んでいた。私があまりに、駐車場が殺風景なので、ビーチ・パラソルの下に、カフェ用のテラスチェアを、置く事にした。そのテラスチェアに、時おり貸主の母親である、おばあちゃんが座って、自分の娘が帰ってくるのを、待っていた。
おばあちゃんは病院に通っていて、たまに、鍵を持ち忘れて、家に入れないと言った。私が貸主の女性に、電話してあげると言ったが、おばあちゃんは、ただ待つと言った。貸主の女性は、社交ダンスを一生懸命習っていて、いつも遅く、帰ってくる。私は、彼女を、長身でスタイルがよく、手ごわい印象から、魔女”ウィッチ”と、勝手に呼んでいた。

その街は、-20度と寒い場所だったが、雪は他の地域より、少ないと聞いていた。ところが、私がカフェを始めて2年を越えた頃、その地域に、大雪が降った。100年に、一度くらいの、未曾有の大雪が、その地域に、降ったのだ。街は麻痺し、除雪作業もストップするほどの、大量の雪と風が、吹いた。
歩道に積もった雪が、腰まで来るほどで、スコップを持って、雪を掻き分けながら、歩いて通勤したと、お客さんが、余談のように、後日話してくれた。病院も、医者や看護師が来ないので、大騒ぎだったそうだ。
これは他の人の話で、私のカフェの駐車場は、それどころではなかった。カフェの裏にある駐車場は、四方八方塞がっていて、吹き溜まりの、極みだった。100年に一度の、雪害ともいわれた雪の塊が、駐車場を雪山にして、覆いかぶさった。
私は、店の中に入ることが、できなかった。そして駐車場に置いてあった、車が消えた。2階の階段の上まで覆われた雪の下に、私の車が、完全に埋まってしまったのだ。想像を超える光景を、ぼんやりと眺めていた瞬間、氷点下をいつも越える、冷たい空気が、私の体を襲った。そんな事もあって、私はそのカフェをやめて、もっと郊外の、お客さんが、駐車するのに便利な駐車場のあるテナントを、探した。

ついに、私が望んでいた条件が揃ったところで、新たにカフェ・レストランを始めることになった。駐車場は広く、雪がたくさん降っても、片付ける場所があり、ストレスが、なかった。そして、親切なご近所さんが、いたらいいなという、私の願いも叶った場所だった。しかし家屋は空き家で、長い間放置されていたため、すべてを、新しくしなければならなかった。
大変な作業が待っていたが、それでもそこを気に入った。何より店舗兼住居の向こうに、海へと続く広い草原の、広大さが、北の大地らしい感じがして、そこを選んだ。(続)
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