幸せが、霞んでいく時代。だから、その欠片を探す旅に、出る事にした。
厳寒の中、デモに立つ、老人の話
厳寒の中、デモに立つ、老人の話

厳寒の中、デモに立つ、老人の話

陰謀論として、隠された事実が伝えられる。今はこれ以上隠すことができない事実が、

明らかになっている、この頃だ。 事実だと言ったことが真実ではなく、陰謀だと、

言っていたことが事実だという、混乱の中で私たちは生きている。

関与せずに山の中にでも、自給自足しながら生きていけば問題はないだろうが、

それも私たちにとって、容易なことではない。

韓国の戒厳と大統領弾劾というニュースに接した後から、朝起きるとSNSを

真っ先に、チェックするようになった。韓国は現在、地域や世代間の分裂が、

できて久しいし、性別の多様化への認識のギャップも、深刻な現況となった。 

家族が、盆暮れに集まって、政治的な話をすることになれば、喧嘩に広がってしまうという、

残念な出来事が、私の周りでもあった。 そのため互いに、そのような話はわざと、

避けるようになった。 お互いの見解があるから、尊重しなければならないという、

それなりの礼儀だったが、今はそのような限界を、越えてしまっているという気がする。

若い世代は、今の時代に、生きていく困難を、オールドな世代が知らず、理解もしない、

と不平を言う。 オールドな世代は、自分たちが守ってきた、厳しい時代を若い世代が、

分かってくれないと悲しむ。 このような、葛藤をなくそうとする努力は、どこでもなされず、

葛藤を助長する勢力によって、常にもみ消された。しかし、それが最近少しずつ、

変化の姿を、見せている。 大統領弾劾で若い世代も政治に関心を示し、より正確な、

情報を得るために、様々なことを模索し始めた。 政策というものについて、国会で出す、

法案について関心を、持つようになった。 ただ世代間の違いや葛藤よりは、現実的な面で、

自分たちの、権利が侵害されているのではないか、と関心を持ち始めた。

「自由はただに、得られるものではない」という言葉が、胸に響くこの頃だ。私の両親の

世代は1950年に、起きた南北内戦を、経験した世代だ。 小学生だった母親は、南に避難する途中、

爆撃で弟をあの世に送り、母方の祖母は衝撃で麻痺し、自力で立つことが、できなかったという。

 その時のことを、話しながら、母親の目には、涙がたまっていた。もちろんこの話は、私が、

昔聞いた話で、私はその意味も忘れて生きていた。 まだ、休戦状態だということも忘れて、

自由というものが、常にそばにあると思った。 多数決の原則、という民主主義の、法によって、

逆にすべてが、制限されるということは、想像もせずに生きてきたのだ。 ある程度は何かが、

間違っている、ことを知っていたが、礼儀や大義名分くらいは、あるだろう、という信念もあった。 

しかし、そのような信頼は私の虚像であり、無関心は、今の結果をもたらした。そして、

今は守らなければ得られない、自由になりつつあった。集会に参加した、ある方が若者に、

言った言葉がある。「君たちは年を取ったことがあるのか? 私は若さを、経験した。」
もちろん、いろんな意味に解釈できる言葉だが、今は良い方に私は解釈したい気持ちだ。

年を取って、気づくことがあるのは事実だ。 若い頃は知らなかった、事実の裏にある、

実相というべきものや、年輪と共に知っていく、事物の道理が。もちろんそんな風を、

ほのかにでも伝えられる人に、なるために、当然、私も努力しなければならないだろう。

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